下田城の歴史的価値並びに提言について

関口宏行

1 歴史的価値

  • 下田城は、下田湾の奥深く、湾に突出するように立地する海抜約70mの山上に築城された戦国城郭である。
  • 後北条氏の水軍の城(「海賊の城」)として、天正16年(1588)に従来の城を大改修して築城されたものである。
    主たる目的は、水軍の根拠地(下田湾に流入する稲生沢川の河口付近に構築)を守り、駿河湾の海上警備等を任務としたものである。
  • 戦国大名の水軍の城としての築城形態を、現在も山上一帯によく残しており、中世城郭の築城方法や変遷等を知り、地域の歴史を調査する上でも、貴重な文化財である。
  • 下田城は、内陸部に築城した城でなく、海岸部に水軍の城として構築したため、その築城形態の特徴を典型的に示している。軍港を守るための縄張りがされていることに注目したい。 一般的な縄張りでは、本曲輪・二の曲輪・三の曲輪が一直線状に配置された連郭式縄張り、本曲輪に接続して階段状に配置された梯郭式等の縄張りが多い。しかし下田城は屈折しながら連なる 山上の尾根を削平して大土塁とみなし防御力の強化を図り尾根の外方を切岸とし、長大な横堀を巡らす等、長城ラインの機能を持たせている。
     従って、下田城の場合、本曲輪や二の曲輪と明確に区分できる曲輪配置をしていない。海岸に立地する地形から大小の谷が形成されており、場所により、入江を成して、城の存立期には、船溜まりの適地と なっていたことも推定できる。山の斜面は、急斜面が多いこともあり、縦堀の使用はあるものの多用はしていない。堀切は、尾根の遮断として構築しているが、大規模なものは存在していない。
  • 後北条氏に築城形態の特徴を示すものとして、『障子堀』がある。県内では、山中城(三島市)や長久保城(長泉町)等で発掘調査により確認されている。この『障子堀』を後北条氏は、下田城で 構築しているのである。『障子堀』は、「天主台」の西側、南東部の尾根南側の横堀内で確認できる。特に西側では、岩盤を削り込み、しかも地形に合わせて段差をつけており、堅牢な防御方法をとった ことが判明する。この『障子堀』を二重に構築しようとした箇所があり、東に連続しているようだが、現在、斜面の崩落により埋まり調査できない。
  • 最近、下田城の西側の山稜上で、下田城の外郭ラインと推定できる城郭遺構が発見された。山稜上や山腹は、江戸期以降の石切り場となっていたが、城郭遺構は部分的に残存していた。尾根幅は狭いが、階段状 の削平地や小規模な土塁を確認している。なお、西側一帯の尾根上を調査したが、城郭遺構は確認できなかったものの、尾根の先端部で物見櫓の設置を想定できる地点が数箇所認められた。 遺構が部分的に散見されるのは、後北条氏が外郭ラインの構築に急遽着手したものの、豊臣軍の来襲に間に合わず、構築途中で放棄し、守備戦線を縮小した結果とも考えられる
  • 現在確認できる城郭遺構としては、曲輪(主郭、帯曲輪等)、土塁、堀切り、縦堀、横堀、障子堀、土橋、切岸、櫓台である。(虎口遺構は、確認されていない)
     土塁の一部を拡幅したり、盛り土をして櫓台とした構築例は、戦国大名の武田氏の城でも確認されているが、天正末期では、後北条氏が多用したようである。
  • 戦国城郭に関する当時の文書や記録類は、比較的残存しないことが多い。このため、城跡は残存していても、文献資料がなく調査を困難にしている場合がある。
     下田城の場合、現地に今日なお戦国末期の城郭遺構が保存されており、古文書も残されているため、貴重な中世遺跡として、学問的な研究にとっても寄与するところが大である。 (『相州文書』、『加賀高橋文書』、『大川文書』、『高橋文書』、『毛利文書』等)

平成15年3月20日