伊豆奥郡代清水康英が大改修
下田城は、小田原城を本城とする後北条氏の支城である。天正十五年(一五八七)九州を平定した豊臣秀吉の脅威を強く感じた北条氏直(ほうじょううじなお)は、翌十六年伊豆奥郡代(いずおくぐんだい)清水康英(しみずやすひで)に下田城の大改修を命じ、その城主に任じた。
清水氏は、後北条氏の始祖北条早雲(ほうじょうそううん)に従い伊豆入国した家臣である。三島神社奉行および評定衆(ひょうじょうしゅう)なども努め、北部の伊豆郡代笠原氏とともに伊豆奥(南部)郡代として、後北条氏伊豆支配の代行者であった。清水氏は賀茂郡の加納矢崎(かのうやざき)城を本拠とし、伊豆衆(韮山城に属する後北条家臣団)第一の大身で、伊豆在地の小領主らを寄子同心(よりこどうしん)に組み入れ、その軍団を率いていた。
康英は清水氏二代綱吉の子で、当然下田城を守備する立場にあった。代々後北条氏当主の偏諱(へんき)を賜い、初め太郎左衛門尉(たろうざえもんのじょう)、のち上野介(こうずけのすけ)に改めた。
後北条水軍の前線基地「下田城」
下田城は、下田湾に突き出た円形状の鵜島(うじま)と呼ばれる半島上に位置している。そのため近世以降【鵜島城】と呼ばれているが、文献史料によれば、正しくは【下田城】と呼称すべきである。
海路の要地下田の水軍基地を整備し、これを守るのが下田城の目的そのものであった。
城は鵜島の北東部にあり、水軍基地の船着場は、船底に付着する動植物を繁殖させないためにも、真水が混じる稲生沢川の河口付近に設けられた。
この水軍基地を抱きかかえるように、標高68.7mの最高所の主郭から、三方に延びた稜線を防衛線として縄張されている。
南方の和歌ノ浦方面を城外と意識し、稜線に土塁、その外側に後北条氏特有の畝堀(うねぼり)が延々と設けられている。最重要地点はあくまでも水軍基地である船着場である。下田城の全体構造を見ると、戦国期の山城というよりも、塹壕と堡塁(ほるい)を兼ね備えた近代的な沿岸要塞を彷彿させる。
畝堀が良好に残る
下田城は下田湾に張り出した半島状の丘陵に築かれており、通称天守台と呼ばれる海抜約70mの高台を中心に曲輪(くるわ)や空堀、櫓台(やぐらだい)が湊を防御するように配されているのが特徴で、海路より襲来する 敵水軍を強く意識した縄張となっている。特に総延長700mに及ぶ空堀の構造は、後北条氏が築城した城郭の特徴でもある畝堀で、残存状態も良く現地表面でもその形状を見ることができる。
主郭を囲む畝堀の現状
410余年後の今日も下田城址には、後北条氏造営の多くの城に見られる畝堀の形跡がはっきりと残っている。発掘調査がのぞまれる。
主郭と二の郭間の堀切
当時の堀切であるが、今日では道と化している。下田城址には戦国の城、下田城の遺跡が比較的良好な状態で残されている。
下田市指定文化財
下田城址(昭和48年6月12日指定)
豆州下田港之図(下田市教育委員会蔵 平成18年3月28日指定)