天正16年(1588年)
- □月 9日北条氏直、下田城を取り立て、伊豆郡代清水康英を城将に命ずる。(「相州文書」)
天正17年(1589年)
- 6月15日康英の弟清水英吉、下田城に移る。康英、英吉に米二十俵を贈り、壁書の規制を守り精勤すべきを命ず。(「南上清水文書」)
- 11月14日清水同心の高橋丹波守、11月9日付康英書状を小田原に持参し、新調船の諸役免除を請う。(「雲見高橋文書」)
- 11月24日羽柴(豊臣)秀吉、北条氏に対し宣戦を布告する。(「真田家文書」など)
- 12月 2日氏直、高橋丹波守に雲見浦の新調船の諸役免許などを、康英に報告する。(「雲見高橋文書」)
- 12月18日康英、高橋丹波守に、秀吉の使者が沼津に居る事を伝え、小田原への人質提出と下田籠城の準備を命ずる。(「雲見高橋文書」)
天正18年(1590年)
「加賀高橋文書」
- 正月 9日氏直、高橋郷左衛門尉に下田城への検使を命ずる。(「加賀高橋文書」)
- 正月12日北条氏政、康英に援軍が来16日に小田原を出発する事を告げる。(「沼津清水文書」)
- 正月17日吉良氏広、江戸摂津守に下田への援軍として出陣する事を促す。(「江戸文書」)
- 康英、英吉に妻子が小田原に召し置かれた事情を伝え、その要求に応ずべきを命ずる。(「南上清水文書」)
- 正月20日氏直、高橋郷左衛門尉父子に、下田出陣につき、万一の時は息久太郎に五十貫文の知行を約す。(「加賀高橋文書」)
- 正月26日氏直、高橋丹波守に一族の忠勤を命ずる。(「雲見高橋文書」)
- 2月 3日氏直、康英の一族清水吉広に韮山蛭島の宿屋敷を安堵した上で、韮山衆に引き渡すように命じる。(「正木文書」)
- 2月10日氏直、村田新左衛門に下田での奉公を命ずる。(「諸氏家蔵文書」)
- 2月11日氏直、清水英吉下田籠城につき、実子福千世の相続を認める。(「子浦清水文書」)
- 2月12日氏直、清水衆の八木和泉守を小田原から下田まで浦伝いに送るよう、船持中に命ずる。(「新井氏所蔵文書」)
- 2月27日羽柴水軍、駿河清水湊に着船する。(『古文書集』)
- 2月28日氏政、北条氏規に長浜城、下田城の備えについて指示し、水軍の将梶原備前守が下田城から東浦・小田原へ移る事を認める。(「大竹文書」)
- 3月 4日秀吉、脇坂安治清水湊着岸の報告を受け、伊豆沿岸の要害調査を命ずる。(『古文書集』)
- 3月 6日秀吉、羽柴秀次が伊豆の浦々で放火した事に同意する。
- 3月25日羽柴水軍の上陸部隊と北条軍、伊豆ヶ崎岩殿(南伊豆町)において一戦を交う。(「小関文書」『伊豆順行紀』)
- 3月27日秀吉、沼津に陣を進める。
- 3月28日秀吉、韮山城・山中城の手勢を定める。
- 3月29日山中城落ちる。氏直、岩殿における小関加兵衛と村田久兵衛の戦功を賞す。(「小関文書」『伊豆順行紀』)
- 4月 1日本多重次・向井正綱、安良里砦・田子砦を落とす。長曽我部元親・九鬼嘉隆・加藤嘉明・脇坂安治ら海路下田沖に至る。(『武徳編集成』)
- 4月21日安国寺恵瓊、横川深居庵に制札を出し、羽柴勢の狼籍を停止する。(「大梅寺文書」)
- 4月23日安国寺恵瓊、脇坂安治、清水康英、高橋郷左衛門尉ら下田籠城衆が、羽柴方に投降すれば、赦免する事を誓う。(「加賀高橋文書」)
- 同日以降 下田城開城する。清水康英一党、羽柴方との交渉では当初鎌倉の寺に入る予定であったが、河津山中の林際寺に退去する。(「加賀高橋文書」「雲見高橋文書」)
- 5月 3日 康英、高橋丹波守・同左近父子に林際寺で、50日に及ぶ籠城の苦労を謝し、何方の寺に隠棲すよう命ずる。(「雲見高橋文書」)
- 7月13日秀吉、小田原城に入り、徳川家康に伊豆国など北条旧領国を与える。下田城には五千石で家康の臣戸田忠次が封ぜられる事になる。