関東屈指の海賊城、豊臣大水軍に抗す
文=清水淳郎
豊臣秀吉の来攻に備えて北条氏直(うじなお)は、天正十六年(1588)下田城を取り立て、その城将に伊豆奥郡代清水上野介康英(いずおくぐんだいしみずこうすけのすけやすひで) を命じ、南伊豆防衛の拠点とした。もちろん敵の主力は水軍であったから、城の北側にあったであろう水軍基地を抱くように、防御ラインが設定されていた。
下田城の守備には城将清水康英とその弟淡路守英吉(あわじおかみひでよし)をはじめ、康英の一族能登守(のとのかみ)父子、清水同心雲見の高橋丹波守(たかはしたんばのかみ) とその一族左近・六郎佐衛門・縫殿助(ぬいどのすけ)・助三郎、子浦の八木和泉守(やぎいずみのかみ)、妻良の村田新左衛門(むらたしんざえもん)や、小関加兵衛(おぜきかへえ) らの伊豆衆をその主力とした。また、小田原からの援軍江戸摂津守朝忠(えどせっつのかみともただ)とその一党、さらに検使として派遣されていた高橋郷左衛門尉(ごうざえもんじょう) ら合わせて六〇〇余騎であった。
当初、北条氏政(うじまさ)の命で船手大将の梶原備前守(かじわらびぜんのかみ)が入城するはずであったが、康英の意向でそれはかなわなかった。 城兵には海賊衆(水軍)が多く、康英自身は海賊衆ではなかったため、吉良氏における海賊衆ともいうべき江戸朝忠が援軍として入城したのであった。
天正十八年二月二十七日、駿河清水港に集結した豊臣の水軍は、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)・九鬼嘉隆(くきよしたか)・加藤嘉明(かとうよしあきら) ・脇坂安治(わきさかやすはる)、そして毛利の水軍など合わせて一万四〇〇〇余。それらは大安宅(おおあたけ)船や関船・小早・荷船などで編成された大船団であった。
先鋒隊は、すでに三月初旬には、伊豆近海に出没していた。同二十五日には、南伊豆の岩殿(がんでん)ー南伊豆町ーで両軍は衝突した。 四月一日、豊臣水軍の一翼を担っていた徳川水軍の将本多重次(ほんだしげつぐ)・向井正綱(むかいまさつな)らは、梶原備前守・三浦茂信(みうらしげのぶ) らの守備する安良里城や、山本正次(やまもとまさつぐ)の守る田子砦を攻略して、伊豆西海岸の北条勢を一掃してしまった。
一方、豊臣水軍の主力である長宗我部・九鬼・加藤・脇坂らも、四月一日には海路石廊崎沖を旋回し、下田沖に到着した。しかし、下田城は三方が海に面した要塞で、 軍船をつける所はない。たとえ大軍の一部にせよ、下田城を海上より上陸して攻撃することは、不可能であった。
おそらく、須崎半島を迂回して、その一部は外浦付近に上陸したであろう。その一軍は柿崎に侵攻し、出丸の武峰(ふほう)の正面攻撃に出た。また、下田富士の麓からも 侵攻して、城下に火を放ち、下田城の山下郭に迫った。そのような戦いの中で、江戸朝忠は討死している。しかし、戦いに明け暮れした毎日というよりも、攻撃軍 は海上封鎖して、下田籠城軍の自由を奪ったのが主たる攻防戦であった。途中、長宗我部隊などを残して、主力は小田原に召喚されている。
海に生きる多くの籠城兵にとって、慰めは海に船を漕ぎ出すことである。しかし、海上に目をやれば、圧倒する装備の敵の船団である。四月二十三日豊臣方の部将脇坂安治・ 安国寺恵瓊(あんこくじえけい)らと、三か条の起請文(きしょうもん)を交わし、ついに開城した。一万四〇〇〇の兵に対し、六〇〇の寡兵であった。 籠城戦は五十日に及んだ。
康英一党は下田開城後、河津郷沢田の林際寺(りんさいじ)に退去して、高橋丹波守らにその苦労を謝し散軍した。のち筏場の三養院に隠棲して、翌年同地で没した。
(しみずあつお・戦国史研究会会員)