山につくられた城
今から4~500年ぐらい前の城は、けわしい山に、まわりの地形を上手に生かしてつくられました。下田にあった深根城(堀之内)と下田城 は、そのころの城です。城に石垣はなく、堀は、水のない空堀(からぼり)で、今、日本各地にある城のようなりっぱなものではありませんでした。 天守閣と言われるようなものもなく、丸太を組んだ物見やぐらや板べいで囲った城でした。 ふだんは別の所に住み、戦いの時、ここにたてこもって、敵をふせぎました。
この時代を、戦国時代といって、大名が、たがいに争っていました。
このころ、伊豆の国は、足利政知(あしかがまさとも)の領地でした。
1491年(延徳3年)、伊勢新九郎長氏(いせしんくろうながうじ・後の北条早雲)は、伊豆の国に攻め込み、深根城をとり囲みました。城を守っていたのは 、正知の子、茶々丸に味方していた関戸播磨守信吉(せきどはりまのかみのぶよし)でしたが、城の中にいた人は、一人残らず殺されたと言われています。今でも、稲梓の堀之内 には、矢所(やどころ)・城山屋敷(じょうやまやしき)・上の殿(とん)などの地名が、残っています。
こうして、伊豆の国は、戦国大名北条氏の領地になりました。
やがて、かずかずの大名を従えた豊臣秀吉は、天下統一のため、北条氏と争うことになり、小田原城を攻めました。北条氏は、清水康英(しみずやすひで)を下田城の 城将にして、1590年(天正18年)、豊臣の水軍が小田原に攻め込むのをふせごうとしました。15,000人をこえる豊臣方に対し、清水氏は、わずか500人ほどの軍勢でしたが、 50日間も、城を守りつづけたそうです。しかし、最後は話し合いにより豊臣方に城をあけわたしました。
北条氏がほろびると、下田は、徳川家康の家来の戸田忠次によって、治められることになりました。
今でも、下田公園にいくと、長い空堀のあとや、やぐらのあとを見ることができます。
御番所の置かれた下田
徳川家康は、政治の実権をにぎると、江戸(今の東京)に幕府を開きました。江戸幕府のつづいた時代を、江戸時代といいます。
江戸時代の船は、帆船(帆をあげて航海する船)でしたので、風向きが悪いと、途中の港にはいって、風待ちをしなくてはなりませんでした。江戸に向かう船は、波の あらい遠州灘を無事に乗りきって、下田港にはいると、ほっとひと息つきました。ところが、相模灘は、遠州灘と風向きが違うときが多いので、下田港で、いく日も、 風待ちをすることがありました。下田港は、江戸に出入りする船にとって、たいへんよい風待港(かざまちこう)でした。
やがて、年貢米や特産品を運ぶために、江戸と大坂の間を回船(旅客や貨物を運ぶ船)が通うになりました。
1616年(元和2年)、今村彦兵衛正勝(いまむらひこべえまさかつ)が、下田奉行になり、須崎に、遠見(とおみ)番所を置いて、下田港に出入りする船の見はりを しました。あやしい者や武器など積んでいないか調べるのが、番所の仕事でした。
1623年(元和9年)に、番所は大浦にうつされました。
1636年(寛永13年)になると、名前も船改(ふなあらため)番所(御番所)と変わって、江戸に出入りする船は、必ず下田港に入って、御番所の調べを うけるようになりました。特に江戸を出ていく女の人や子どもと江戸に入る武器は、厳しく取り調べられました。
こうして、御番所の置かれた下田港は、「海の関所」の役目をしました。
日本の各地の産業の発達につれて、下田港に出入りする回船の数も、次第に増えてきました。また、東北地方から江戸に向かう船も、いったん下田港にはいって 、御番所の調べを受けるようになりました。
そのようにして、下田港に出入りする船も増えて、1年間に三千そうぐらいになり、下田の町も、大変にぎわったそうです。
しかし、1721年(享保6年)、下田港の入り口が狭く、風や波が強い時は、船の出入りが危険だということで、御番所は、浦賀(神奈川県)に移されることになりました。御番所が 置かれてから、およそ百年間栄えてきた下田は、かつての勢いがなくなってしまいました。
しかし、なお、風待ちのために出入りする船があったので、浦方御用所が置かれて、海の交通安全のための仕事が続けられました。
開港の歴史
黒船の来航
わたくしたちの下田市は、全国に、その名を知られています。これは、下田が、江戸時代の終わりごろの今から160年ほど前に、外国船の出入りが日本で最初に許された港になり、 ペリー提督がひきいる黒船がやってきたためです。
徳川幕府は、外国とつき合いをしない「鎖国」を、長い間とってきました。
しかし、江戸時代の後半になると、海外に進出したヨーロッパの強い国々や、アメリカ合衆国の勢力がアジアまで伸びて、日本の近くの海にも、外国船がたびたびあらわれるようになりました。
この下田港に、西洋の外国船が初めてすがたをあらわしたのは、1849年(嘉永2年)の4月に入港したイギリスの軍艦マリーナ号でした。
1853年(嘉永6年)に、アメリカ合衆国大統領の国書をもったペリーが艦隊をひきい、神奈川県の浦賀(横須賀市)に来航して、正式に開港を求めました。 鎖国を続けたい幕府は、返事にこまり、来年返事をすると約束して帰しました。
ペリーは、次の年1854年(安政元年)、ふたたび艦隊をひきいて(横浜)の海にいかりをおろし、約束の返事をせまりました。
幕府は、ついに鎖国をやめて「日米和親条約」という条約を結び、下田港と北海道の函館港の二つを開港場とし、外国船の出入りをゆるしました。
条約が結ばれると、ペリーは、艦隊をひきいて、下田港に来ました。七隻の軍艦は、犬走(いぬばし)島との間に、いかりをおろしました。そして、開港場としての下田を しらべるとともに、「下田条約」とよばれる日米和親条約の細かなとりきめを日本の代表との間に結びました。
艦隊を見た、下田の人々のおどろきは、たいへんなものでした。
黒い船体と、高いマストをもち、蒸気の力で走る大きな船、当時の人達は、この異国船を、おどろきの気持ちから「黒船」とよびました。
また、この艦隊が港にていはくしているとき、吉田松陰と金子重輔が、アメリカ合衆国にわたろうとした事件がおこりました。
かねてから、外国で勉強したいと考えていた吉田松陰は、黒船が下田に入港したことを知り、金子重輔とともに下田に来ました。
そのころ、外国に行くことは、かたく禁止されていました。二人は、柿崎の弁天島にかくれ、夜ひそかに小舟で軍艦ポーハタン号に乗りつけ、アメリカ合衆国まで乗せて行ってくれるよう にたのみましたが、ことわられてしまいました。そして、自分から外国に行こうとしたことを申し出て、幕府の役人にとらえられてしまったのです。
1856年(安政3年)、アメリカ合衆国から、タウンゼント・ハリスが、総領事として、下田に来ました。そして、柿崎の玉泉寺が、ハリスが事務をとる領事館となりました。
日米和親条約は結ばれましたが、幕府は日本とアメリカの貿易(商品の売り買い)はみとめませんでした。開港場といっても、ただ、外国船に出入りをゆるして、航海に必要なまきや炭、その他、 水や食料などの買い入れをゆるしただけでした。
しかし、実際には航海に必要な物のほかに、みやげ物など様々な日本のものが船員に売られていました。ペリーの書いた本に、「江戸、その他から、美しい品物が、いっぱいもちこまれた。」 とあるのは、その事実をものがたっています。
下田が開港場としてさかえたのは短く、1859年(安政6年)日米通商条約が結ばれて、横浜が貿易港として開港されるまでのわずか5年間でした。江戸に遠く、けわしい天城山をひかえて、 貿易港としては不便だったためでしょう。
ディアナ号の来航
日本が、アメリカ合衆国に開港すると、その年に、ロシアも開港をせまって、プチャーチンを日本に使いとしてよこしました。
プチャーチンは、軍艦ディアナ号で下田に来ました。ディアナ号が、下田港にいかりをおろしていた1854年(安政元年)、下田に大津波がおしよせました。 波は、本郷から中村にまでおしよせ、下田の町は、ほとんど全めつするほどの被害を受けました。ディアナ号も、木の葉のようにゆり動かされて、大損害をこうむりました。
交渉は、このような中でも続けられました。そして、1855年(安政元年)、5回目の交渉の場所だった市内三丁目にある長楽寺で、日露通好条約が結ばれました。この条約の中で、 初めて日本とロシアの国境について取り決めもなされました。
この条約には、両国の国境を択捉(えとろふ)島とウルップ等の間に定め、択捉、国後、色丹、歯舞の四島は日本の領土とし、ウルップ島から北の千島列島はロシア領とすることが書かれています。 また、樺太は日本とロシアの両国民が一緒に住む場所とされています。
1981年(昭和56年)、この条約の歴史的な意義を確認し、領土の返還を求める日として、条約の結ばれた2月7日を「北方領土の日」とする ことが政府により定められました。
下田市教育委員会 平成22年度改訂版 郷土読本「しもだ」