下田城址
天下統一を進める豊臣秀吉と、小田原城を本拠地とする北条氏の対立が表面化してきた天正16年(1588)、陸の防衛拠点である箱根の山中城(三島市)とともに、 海の防衛拠点として下田城が取り立てられ、伊豆郡代清水上野介康英を城将に大改築が行われた。
城は、海と断崖に囲まれた天然の要害に築かれている。通称天守台跡と呼ばれる高台を中心に、四方にのびた尾根の要所に守備陣地である曲輪(くるわ)や櫓台(やぐらだい)が 設けられ、総延長700メートルを超える空堀が巡る伊豆半島最大規模の山城である。
天正17年(1589)12月から翌年にかけて、雲見の高橋氏や妻良の村田氏など南伊豆の武士が入城し、小田原からは援将江戸摂津守・検使高橋郷左衛門尉が派遣され、 臨戦態勢が整えられていった。
天正18年3月、清水湊(江尻)に集結した豊臣方水軍は、長宗我部元親や脇坂安治らが率いる1万人を超える大船団で、西伊豆を制圧しながら下田城に迫った。圧倒的な 兵力を眼前に、城将清水康英ら600余名の籠城軍は、50日ほど防戦に努めたが、4月下旬には開城の勧告を受け入れ、城を出た。
平成21年3月 下田市教育委員会
空堀(からぼり)
下田城は、戦国大名北条氏が、豊臣秀吉との対決に備えて大改築した中世末期に山城である。城は、北条水軍の拠点として、下田湾に張り出した半島に築かれている。尾根の要所に曲輪(くるわ)や物見台を配し、およそ700メートルの長大な空堀が巡る強固なものだった。
天正18年(1590年)に来襲した豊臣方水軍は、1万人を超える圧倒的な兵力で海と陸から城を包囲した。籠城した北条方の軍勢は、清水上野介康英を城将に、およそ600名程度であった。 50日あまりの攻防を経て、寄せ手の安国寺恵瓊(あんこくじえけい)・脇坂安治(わきさかやすはる)の起請文が出され、籠城軍は開城に応じた。
城址は400年を経ているが、空堀の残存状態は良好である。北条氏が築いた山城の特徴である畝堀(うねぼり)は、空堀の中に、侵入した敵兵の行動を妨げるために障害物(畝)を設けたもので、今日も目を凝らすとその形状を見る事が出来る。
平成21年3月 下田市教育委員会
豆州下田港之図
この絵図製作年代は、天正18年の下田開城から80年後の寛文10年(1670年)前後、第四代下田奉行今村伝三郎の在任中と考えられる。 中央の鵜島山の所が下田城址。下田市教育委員会蔵 平成18年3月28日指定