講演:下田市文化財保護審議会長 佐々木忠夫氏
(講演会レジュメより)
1. 海から見た下田の歴史の特色
(ア)古代(平安時代)・中世(鎌倉時代)
・田牛長谷寺 阿弥陀如来坐像(重要文化財) 海よりの渡来伝説
・蓮台寺天神社 大日如来坐像(重要文化財)
(イ)中世(戦国時代)・下田城 後北条水軍の拠点 秀吉方水軍に備える
秀吉の小田原攻めと下田城の攻防 天正18年(1590)
(ウ)近世 前・中期
- 御番所時代(1616〜1721)
江戸城防衛上の「海の関所」 大浦に船改番所(関所)の設置
江戸への上がり下りの廻船はすべて下田に寄港して検問をうける
- 下田の繁栄
「伊豆の下田に長居はお止し、縞の財布が軽くなる」
消費都市、他者依存の体質
- 町並みの完成
碁盤の目のように東西南北に走る道路によって区画、水道の地下敷設など
- 御番所の浦賀移転 享保7年(1721)
下田の窮乏 飢人2,000人余
風待ちと漁業の港町へ
(エ)幕末開港 日本外交の中心舞台へ
1,ペリーと下田の開港
- 日米和親条約 嘉永7年(1854年3月3日) 下田開港…ペリー艦隊の下田入港 了仙寺の応接 欠乏品の供給 異人休憩所・埋葬所
下田条約の締結 下田条約・・・和親条約の細則 了仙寺で締結
- 下田奉行の再々置
- 吉田松陰の海外密航事件
2.ロシア使プチャーチンがディアナ号で入港
- 安政の東海地震(嘉永7,11,4)・・・下田の全滅、ディアナ号の大破
- 修理港戸田への曳航中、風波に流されて駿河湾に沈没 戸田での代艦建造
- 日露和親条約(下田条約)の締結 安政元年(1854)12.21於長楽寺 北方領土の画定など
3.開港場の整備と地震・津波の被害からの復興
- 下田奉行所、御用所、欠乏所の建設、武ガ浜浪除の復旧・・・公共事業
- 町屋の復興・・・幕府の援助・・・貸付など
4,ハリスの下田駐在 安政3年(1856)〜同6年(1859) 下田条約・・・通商条約の前提
- 領事館玉泉寺・・・オランダ人通訳ヒュースケン、中国召使
- 唐人お吉
- ハリスの出府と日米修好通商条約
- 横浜開港→下田開港場・奉行所の閉鎖 安政6年12月 下田は元の港町へ
2 下田城
(ア)築城の時期
- 「天正3年(1575)城の増築のため茅庵が相州に移された」との記録がある
茅庵(福寿庵)の僧は噩叟宗俊 『豆州志稿』『増訂豆州志稿』『寂用禅師記録』
天正3年以前に下田城があったことを示しているが、築城の時期は明らかでない
(イ)本格的な築城の開始
- 天正16年(1588)、秀吉方の小田原侵攻に備えて水軍の拠点として、築城が始まり城将に清水上野がなる
(ウ)築城の準備
- 天正17年 6月15日 清水淡路守(下上野)が下田城へ移る
- 12月18日 清水康英が高橋丹波守(雲見)に籠城の志度を命ずる
- 18年 正月 9日 高橋郷左衛門尉が下田城の検使を命じられ、城に留まる
- 12日 北条氏政が下田への援軍が16日に小田原を出発することを康英に伝える
- 17日 江戸摂津守が下田への加勢を命じられる
- 2月10日 村田新左衛門を康英の旗本として召仕えさせる
- 12日 氏政が小田原から下田までの浦伝えに兵糧米を送ることを命じる
- 28日 北条氏政が同氏規に水軍の将梶原景宗を入れようとしたが、清水康英と意見が合わず、小田原へ引き上げさせたことを伝える
(エ)攻防の状況
- 天正18年 2月27日 秀吉方水軍の長曾我部元親・脇坂安治・加藤嘉明らの船団が清水に集結
- 3月10日 △この頃、秀吉方水軍が下田城を包囲
- 29日 △南伊豆岩殿の戦いで「西国の海賊」一人を討捕らえた小関氏の戦功を賞する
- △韮山城・山中城への総攻撃。山中城が攻め落とされる
- 4月21日 秀吉が船手軍勢の乱暴・狼藉を禁ずる制礼を横川深居庵に下す
- 23日 安國寺恵瓊・脇坂安治が清水康英に開城を勧告する
- 伊豆國が徳川家康に与えられることが伝えられる
(オ)開城 4月末頃
- 天正18年 5月 3日 清水康英が下田出城後に河津林際寺まで同行した高橋丹波守に決別状を送る