新しい展開へ

 「下田城の保存を推進する会」は設立後間もなく八年を迎える。専門家も評価する空堀に代表される戦国時代の城址、この郷土の歴史遺産を荒れるままに放置してはいけない。戦国の代表的山城の城跡を保存し、後世に伝えていくべきでないのか。

 このような趣旨で当会は発足した。具体的には次の二大目標を掲げた。

  1. 市に対し空堀の保存を働きかける。
  2. 下田城の歴史的意義を学び、市民と共有していく。

この方針に沿って、毎年活動を続け、今や七十名を越える会員を有する組織となった。

 一項については、教育委員会と幾度も検討会をもち、二代に亘る市長にも数度陳情を行った。その結果楠山市長の英断と議会の理解を得て、その第一歩として遺構の一部の測量が認められた。今後専門業者による空撮を含めた調査が実施される。測量図を作成することにより、城の周辺地形や縄張りが明らかにされ、将来城跡が自然災害で破壊されたり、空堀が埋没したりしても、再現が可能となる。これは当会が招いた静岡県城郭研究会の関口宏行先生や、我が国の代表的な城郭研究家・中井均滋賀県立大学教授からも指摘された。

 測量結果を我々は注視し、教育委員会とも話し合い、保存に向けての次なるステップを進めていかねばならないと、考えている。
 
次に二項であるが、我々自身が下田城の歴史的意義をもっと学ばねばならない。毎年、専門家を招き講演やシンポジウムを通して、本格的勉強を始めたのもそのためだ。

 まず前述の関口先生には城址と三方の尾根に連なる空堀について、現地で説明を受けた。地元にいながら初めて知ることばかりだ。豊臣軍二万の大軍の攻撃に、下田城・城将清水康英がたった六百人の兵と共に五十日間死守できたのは、この地形とそこに縦横に造られた空堀のお陰であることを知り、まさに目から鱗が落ちる思いであった。

 日本中世史の第一人者であり、NHKの時代考証で著名な小和田哲男博士にも来訪願った。「下田城は北條水軍の重要な拠点であった」ことを講演とシンポジウムを通して詳しく教授された。前述の中井教授には「港を守った城郭であり、築城思想は極めて近代的」と教えられた。

 ユニークな講師としては、城好きで有名な春風亭昇太師匠を招くことに成功した。師匠から、城の見方、楽しみ方を学ぶ。しかも、名調子の落語一席を伺い、受講者にとっては望外の喜びであった。

 また、郷土の歴史家、故佐々木忠夫先生からは、「三方を海と絶壁に囲まれた天然の要塞」であったと評価しながらも、歴史遺産の保存は大変なことだとも注意された。さらに、土橋一徳先生には、「この城があって、初めて今の町の原形が生まれた」という話を、町への食糧の調達方法を含めて伺い、なんとも興味深かった。

 当会顧問であり、日本考古学協会の外岡龍二先生には、城址跡を巡りながら、下田城の痕跡を示され、船溜まり防衛のための砦であったことの証を示された。

 講演以外には、当会は年一回研修旅行を行っている。小田原城や韮山城など北条に縁のある城跡を訪れ、現地の専門家から貴重な史実を聴く機会を得た。これには会員だけでなく、多くの一般市民も参加しているが、参加者は一様に視察を通じて、下田はまさに小田原北条一家の一員であったことを強く認識したものだ。

 昨年末、佐々木嘉昭会長を中心に創立メンバーと会発足七年を振り返った。短い期間で、しかも少ない会費で賄う予算の中で、それなりに濃密な活動ができたのではないかと、自己評価した。

 研鑽を重ねるごとに、我々は下田城に高い誇りを持つようになり、是非ともわが町の歴史遺産を保存し、後世に伝えるべきことを確認した。市のバックアップも決定して、歴史遺産の保存にいよいよ官民で力を合わせていく方向ができたところだ。

 結びに、清水淳郎先生を紹介しなければならない。氏は城将清水康英の末裔にあたる。現在『週刊日本の城』などの編集をする碧水社の社長を務める。当会は同氏により貴重な助言や、我が国を代表する歴史学者の紹介を得てきた。氏の知遇を得なければ、素人集団のわが会は、泡沫の如く消えたかもしれない。改めて清水淳郎先生に心から謝意を表するとともに、先生が当会にとってなくてはならない師であることを申し添えたい。